- 2 - 「ROUTE 66」 栄枯盛衰
 

「ROUTE 66」...その歴史を追っていきます
アメリカ合衆国で初めて国道システムの設置が提唱されたのが1923年。
1926年に連邦最初の国道の1つとして設置されました。
国道の設置については「国道番号を偶数とすること」および「番号を60から始めること」が提案に盛り込まれ
結果、国道60号線(U.S. Route 60)はバージニアビーチとミズーリ州スプリングフィールドを
国道62号線(U.S. Route 62)はシカゴとロサンゼルスを
アメリカ合衆国南西部を東西に貫くこの国道には「覚えやすく言いやすく聞きやすい」という理由でゾロ目の番号66があてられました。
 
 

1927年には、オクラホマ州タルサで「国道66号線協会(U.S. Highway 66 Association)」が発足。
協会の目的は国道66号線の「舗装促進および利用者の増加を図る」ことでした。
1928年には、同協会のプロモーションの一環として「バニアン・ダービー(Bunion Derby)」という競走レースを開催。
これはロサンゼルスからニューヨークまで大陸を横断するもので、シカゴまでは国道66号線を走るルートになっていました。
ウィル・ロジャースを含む著名人たちが沿道に応援に駆けつけるなど、プロモーションは成功を収め、同協会は1976年に解散するまで、沿道の産業界側の窓口としての役割を果たす事となりました。
 
 
 
全体的に平坦な地形など地理的な条件にも恵まれ、トラック輸送には適した道路であったため交通量は日増しに増加。
1930年代には、土壌流出によりカンザス・オクラホマ・テキサス各州からカリフォルニア州へ移住する農家が西へと向かうための道としての役割を担いました。
小さな町村を縫うように走り、交通量も増加の一途をたどっていたため、沿道には各種商店やレストランなどビジネスを起こす機会にあふれていたため、大恐慌時代には、この国道の存在は沿道の住民に安心感を与えました。
創設された当時は、他の多くの国道と同じように、ほとんどは未舗装の埃道でしたが
国道66号線協会の努力により、1938年に国道66号線は全米の国道で初めてとなる舗装がなされました。



「Bloody 66(血まみれの66号線)」と呼ばれるような危険な場所もありましたが、ルートの変更などにより次第に危険なカーブはルート上から取り除かれていきました。
しかし、アリゾナ州のブラック・マウンテン山地(Black Mountains)を越える1ヶ所だけは、1953年までヘアピンカーブの連続する曲がりくねった道として残りましたが、それでも国道66号線は人気の高い道路でした。
 
 
第二次世界大戦中、カリフォルニア州で軍需産業が発達し、西への人口の動きはさらに加速しました。
そうした状況下で、国道66号線は軍用品の運搬路としての役割を果たし、国道66号線の近くにあったミズーリ州のフォート・レオナード・ウッド陸軍基地は、軍の交通需要に応えるため、迅速に国道の拡幅を行いました。
1950年代に入ると、国道66号線の主な通行者はロサンゼルスへのバカンス客へと代わっていきました。
この国道はアリゾナ州内においてもグランドキャニオンの近くを通っており、人気の高い観光地であったバリンジャー・クレーターも同州にありました。



こうした観光需要の高まりにより、沿道にはモーテルや各種ショップが建ち並ぶようになり
また、沿道ではドライブスルーの設置や、マクドナルドの登場など、ファーストフード産業も生まれました。
このような沿道の変化は「ルート66」を単なる道路ではなく、アメリカ近代文化の縮図へと変貌させていったといえるでしょう。
 

しかし....................
1956年、ドワイト・アイゼンハワーの連邦補助高速道路法に調印したことによって、衰退への道へ。
この法律は、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においてアウトバーンを目にしたアイゼンハワーが、アメリカ合衆国にもそのような高速道路網を建設しようとして成立させたものであった。
以後、この法律により、アメリカ合衆国内の主要な国道は次々に州間高速道路に置き換わっていくこととなります。
 
国道66号線も例外ではなく、高速道路の技術が発達するにつれて、技術者たちは常に都市間を直線的に結ぶルートを考えており、第二次世界大戦後の交通量の激増によって、国道66号線も余儀なく大小の変更をされました。
例えばイリノイ州においては、シカゴからミシシッピ川岸に至るまでの州内全線を4車線に拡幅、バイパスが町という町に建設されました。
1950年代初頭から中盤にかけて、ミズーリ州においても4車線への拡幅が行われ、両州の4車線に拡幅された国道66号線のほとんどの部分は、後に州間高速道路へと置き換えられていくことになります。
 
 
 
1953年、国道66号線の初の大型バイパスとなるターナー・ターンパイク(Turner Turnpike)がオクラホマ州タルサ・オクラホマシティ間に開通。
全長140km(88マイル)におよぶこの有料道路は、沿道の町を迂回する形で国道66号線に並行しており、この有料道路は1957年にウィル・ロジャース・ターンパイク(Will Rogers Turnpike)と合わさり、タルサ・オクラホマシティ両市とミズーリ州の州境の町ジョプリンとを結びました。
この有料道路もまた、沿道のオクラホマ州北東部やカンザス州内の町を迂回する形で国道66号線に並行し、この2本のターンパイクはやがてタルサの国道66号線バイパスとともに州間高速道路44号線となりました。
 
テキサス州においては、国道66号線を州間高速道路で置き換える計画が頓挫していました。
州間高速道路の建設にあたって訴訟沙汰となったからです。
この頃になると、国道66号線協会が地元産業界を代弁し、州間高速道路の建設反対を訴えるようになっていました。
州間高速道路は地上の道路とランプウェイでのみ接続する形であるため、道路の開通によるビジネスの機会につながりにくく、結果として産業の損失となるのではないかという懸念があったからです。
 
このような訴訟は有料道路以外ではあらゆるところで起こっていました。
ミズーリ州のいくつかの町では「国道66号線の標識を町から取り除いて州間高速道路を建設したら訴訟沙汰にする」と言って、州政府に脅しをかけた例も(実際には訴訟は起こりませんでしたが)。

いくつかの企業は国道66号線との関連性で有名だったため、66という番号を失うことを恐れ、ミズーリ州政府に国道66号線のセントルイス・オクラホマシティ間を「州間高速道路I-66」として制定することを求めたが、州政府が受け入れることはありませんでした。
1984年、アリゾナ州ウィリアムズでの州間高速道路40号線の完成により、国道66号線の最後の部分が置き換えられ、その翌年、国道66号線は正式に廃線となり、59年の歴史に終止符を打ちました。



 
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